私は、前職のエッチ・ケー・エスという会社で、長年 “チューニングカー1 ” の製作に携わっていました。
当時、同居していた寝たきりの義母を送迎する福祉車両を見て「こんなの自分で作れるのになぁ~」と閃き、自社の新規事業として福祉車両の改造部門を立ち上げたいと企画して本社と交渉を続けましたが 認められず・・・
本社の社長が私に諭した「とても素晴らしいことだが、HKSでやるべきことではない」「どうしてもやりたいのであれば、独立してやったらどうだ」という言葉が気付きとなり、それから約3年後にイフを創業するに至りました。
起業にあたり「福祉車両」というワードを使うかどうか? 悩みました。
やりたいことは「福祉」ではなく、一人ひとりのニーズに合わせたオンリーワンの自動車改造(カスタマイズ)なので、「福祉車両」という言葉に強い違和感があったのです。
後に、欧米では「カーアダプテーション2」という考え方が主流であることを知りましたが、当時は知る由もなく、先輩経営者から「なんでもやります!は得体が知れないから絶対やめたほうがいい」という忠告を受け、2004年4月に「福祉車両のプロショップ・イフ」としてスタートしました。
その後、地元ユーザーの協力を得ながら、独学で車いすの勉強を重ね、念願だったオーダーメイド車いすの事業を軌道に乗せることができました。
在宅介護をしていた頃、体に合わない車いすに座らされてベッドに戻りたがる義母に対して、頑張って起きていないとダメだよと言っていたことは、今となっては拷問に等しかったと反省し、何時間でも安楽に座っていられる車いすづくりの礎となっています。
猪突猛進で仕事に明け暮れる毎日を過ごしていた 2008年8月・・・自宅が火事で全焼し、義母と14歳の愛娘を喪いました。
私自身もⅢ度の熱傷と家族を救うために屋根から飛び降り腰椎粉砕骨折を負って救急搬送されましたが、気道熱傷が酷く全身麻酔のための気管挿管ができず、半月余りICUのベッドに固定されていました。
両目の熱傷で周囲が全く見えない中、見舞いに来てくれた大勢の方の声が心に届きましたが、愛娘の声だけは聞こえてきません・・・
どうして自分は生かされたのだろうと、自問自答が続きました。
脊柱固定術のオペが成功し、マイ車いすで院内を自由に移動できるようになった頃、看護師さんが「内藤さんも重篤だったけど、お見舞いに来られる(車いすの)皆さんも、相当な感じ(重たい障害がある)ですよねぇ」と呟きました。
見舞いに来た仲間(車いすユーザー)からは「こっちの世界へようこそ♪(バスケやる?)」などの勧誘を受けました。
残念ながら体のどこにも後遺症が残ることはありませんでしたが、自分が生かされた理由は、自分やイフを必要としてくださっている方がいるという紛れもない事実にあることに気付かされました。
関わる方の「もし」を「できる」に変える。 それが自分達がこの世で生かされている証であり、自分達が日々果たすべき使命と信じて、全身全霊を捧げています。
有限会社イフ 代表取締役 内藤 憲孝